約 164,487 件
https://w.atwiki.jp/si1215017eta/pages/18.html
現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/211.html
リスト 【ニコニコ動画】もっとカオスな三国志クロニクル ストーリー Q.これってどんな話? A.主人公が女神に頼まれて、三国志の世界に突如現れた自称「神」を倒しに行く物語です。 登録武将 東方・遊戯王・クレしん・アイマス・らき☆すた・ハルヒ・リリカルなのは・ひぐらし・マリオ・その他ニコニコキャラなど 主人公として手書きキャラ ニコ子 設定 使用シナリオ 「英雄集結」改 難易度 上級 スタート位置 雲南 変更点 勢力配置の大幅な変更 各都市のパラメータ調整 曹操・孫堅・劉備軍の分割 井ランの弱体化 衝車の強化 陣形の機動力UP 港の強化 一部兵法の発動率増加 野戦兵法の若干の弱体化 射撃兵法の若干の強化 最終目標は「神」軍の打倒or中国統一 簡単な解説 悲惨なステータスをもつうp主の分身ともいえる人物を主人公に配したニートの系譜に連なるであろう三国志Ⅸプレイ動画。 女神に呼び出されたニコ子がニコニコで人気のキャラたちと力を合わせて「神」打倒を目指します。 最大の特徴として挙げられるのはやはり登録キャラの多彩さ。 まさにタイトルどおりのカオス。BGMもカオス。イベントもカオス。 同人の世界でしかできないクロスオーバーを極限まで求めている三国志である。 前作、カオスな三国志クロニクルはPCの故障によりデータそのほかまとめて消去されてしまった模様。 ほぼ一から作り直しになったため前作とはかなりの違いが見える。前作が途中で消えてしまったのは残念ではあるが 作り直したがんばりはすごい。今回はぜひとも完結までがんばってほしい。 はやて軍に魔王を見た。どーすんだあんなもんwww -- 名無しさん (2008-05-07 03 03 13) アニキかっこよかった。 -- 名無し (2008-06-04 23 36 10) またもPCが雷で逝ってしまったらしく、再び更新停止にorz。 -- 名無しさん (2008-08-14 18 03 52) 1年以上経ったが、やはりまだ戻ってはないか・・・ -- 名無しさん (2009-11-23 14 32 25) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/12.html
<魏 263年> <蜀漢 263年> <呉 263年>? 263年 景元四年(魏) 皇帝 曹奐(字景明・魏常道鄉公) 皇后 (空位)→卞氏 皇太子 三公(魏) 晋公:→司馬昭(相国) 相国:→司馬昭(晋公) 太傅:司馬孚(前太尉) 太保:→鄭沖(前司徒) 太尉:高柔(前司徒) →(死亡) →鄧艾(前征西將軍) 司徒:鄭沖(前司空) →鍾会(前鎮西将軍) 司空:王祥(前司隸校尉) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍)→ 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号)→ 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:孫壹 衛将軍:? 地方官 司隸校尉: 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:諸葛緒 交州牧:孫壹? 梁州: 主な事件 四年春二月、また大將軍に爵位を進め九賜を具えるように命じた。前の詔と同様であった。しかしまた固辭して沙汰止みとなった《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 夏五月、詔に曰わく「蜀は小國で土地は狹く民は寡ない。しかし姜維は虐げてそれらを酷使し、止める気もない。先年破れた後、なお沓中に留まって耕作している。羌族を勞役し民は命を全うできない。人を致して人に致されずが兵家の上略だ。蜀が恃れ賴るのは唯姜維だけである。今、征西將軍の鄧艾に諸軍を督帥させ、甘松に赴き沓中で姜維と交戦せよ。雍州刺史の諸葛緒は諸軍を督して武都に赴き、高く樓を築き、首尾応じて討て。もし姜維を捕らえたならば、東西より並進して巴蜀を掃滅せよ」また鎮西將軍の鍾會に命じて駱谷経由で蜀を討たせた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》秋、蜀征討の詔勅が下った《三国志魏書鄧艾伝》 秋九月、太尉の高柔が薨ず《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 冬十月甲寅、また大將軍に位爵を進め九賜を具えるよう命じた。前の詔と同様であった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十月癸卯、皇后に卞氏を立てる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十一月、大赦《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十一月、鄧艾、鍾會が率いる軍は蜀を征討し至る所で勝利する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十一月、蜀主の劉禪が艾に降る。巴蜀は皆平定される。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十一月、魏帝は晉公の司馬昭に命じて相國と為し百揆を総攬させる。侍中、大都督、錄尚書は返した。《晋書帝紀太祖文帝昭》 十二月庚戌、司徒の鄭沖を太保と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十二月壬子、益州を分けて梁州を置く。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十二月癸丑、特に益州の士民を赦し、また五年間租賦之半分を免除する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十二月乙卯、征西將軍の鄧艾を太尉に、鎮西將軍の鍾會を司徒と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》十二月、蜀征討の功績から詔勅によって鎮西将軍鍾会を司徒に任じ、県侯として領邑一万戸を加増した。二人の子を亭侯に取り立て領邑千戸を与えた。《三国志魏書鍾会伝》 皇太后が崩御する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》十一月、明元郭皇后が崩御した《三国志魏書鍾会伝》 誕生者 死没者 諸葛瞻(蜀の丞相諸葛亮の子) 鍾イク(鍾会の兄・病死)
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/161.html
<魏 223年> <蜀漢 223年> <呉 223年> 223年 黄武二年(呉) 皇帝 曹丕(魏文帝) 三公(呉) 呉王:孫権 丞相:孫邵 その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 主な事件 二年春正月、魏の曹真は軍を分けて江陵の中州に拠る。《三国志呉書呉主権伝》 是月、城江夏山。四分暦を改めて乾象曆を用いる。《三国志呉書呉主権伝》 三月、曹仁は將軍の常彫等を遣わして、兵五千をもって油船に乗り込み、濡須の中州に渡る。曹仁の子の曹泰は軍を引いて急に朱桓を攻める。朱桓は之を拒み、別に將軍の嚴圭等を遣わして常彫等を擊破する。《三国志呉書呉主権伝》 三月、魏軍は皆退却した。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月,孫権の臣下は尊號を奉るべきと勧めたが、孫権は許さなかった。《三国志呉書呉主権伝》 劉備が白帝で薨去する。《三国志呉書呉主権伝》孫権は立信都尉の馮熙を遣わして蜀に行かせ、劉備の喪を弔う。熙字子柔。潁川人。《三国志呉書呉主権伝に引く吳書》 五月、曲阿で甘露が降ったと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 六月、これより先、戲口の守將である晉宗が將の王直を殺し、魏に寝返っていた。魏は蘄春太守と為す。晉宗は数度呉の邊境を侵犯する。孫権は將軍の賀齊に命じて糜芳、劉邵等を督して蘄春を襲撃した。邵等は宗を生け捕りにした。《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、蜀は中郎將の鄧芝を使者にして來聘した。《三国志呉書呉主権伝》蜀は馬二百匹、錦千端、及び方物を返礼とし、自今後、互いに往来することが常態となった。吳はまた産出物を返礼としその厚意に答えた《三国志呉書呉主権伝に引く吳歴》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 222年<< >>224年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/80.html
<魏 223年> <蜀漢 223年> <呉 223年> 223年 章武三年→建興元年(蜀漢) 皇帝 劉備(漢昭烈帝)→劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 吳氏→長楽宮皇太后と為す 張氏(車騎將軍張飛の娘) 三公(蜀漢) 丞相:諸葛亮(前軍師将軍) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事:諸葛亮 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍: 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 章武三年春二月、丞相の諸葛亮は成都から永安に至る。《三国志蜀書先主伝》 三月、黃元は兵を進め臨邛県を攻める.將軍の陳曶は黄元を討って黄元軍は敗れる。黄元は流に従って長江を下るもその親兵が縛るところとなり、生きて成都に送られ、斬られる。《三国志蜀書先主伝》 劉備の病は篤くなり、孤を丞相諸葛亮に託し、尚書令の李厳を副と為す。《三国志蜀書先主伝》 夏四月癸巳、先主は永安宮に於いて亡くなる。時に年は63歳。《三国志蜀書先主伝》 五月、劉禅は成都に於いて襲位する。時年17、皇后を尊んで皇太后と為す。大赦して改元す。《三国志蜀書後主伝》建興元年五月、後主が即位すると、皇后を尊んで皇太后と為し、長楽宮と為す。父である呉壹の官は後に車騎將軍に至り、県侯に封ぜられる。《三国志蜀書先主穆后伝》 五月,劉備の棺が永安から成都に還る。劉備を諡して昭烈皇帝。《三国志蜀書先主伝》 建興元年夏、牂牁太守の朱褒が郡を擁して反乱す。是より先、益州郡の大姓である雍闓が反乱する。太守の張裔を呉に流す。郡に撚り通交せず。越嶲夷王の高定がまた叛く。《三国志蜀書後主伝》 秋八月、劉備を惠陵に葬る。《三国志蜀書先主伝》 この年、張氏を皇后と為す。《三国志蜀書二主妃子後主敬哀張后》 尚書郎[登β]芝を遣わして呉と固く好を結ぶ。呉王の孫権は蜀と和し使者を送る。是歲より通好す。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者 劉備 黄元
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/188.html
<魏 250年> <蜀漢 250年> <呉 250年> 250年 赤烏十三年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫和→(廃太子)→孫亮 三公(呉) ? その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 左大司馬:朱然(前車騎將軍)→(死亡)→? 右大司馬:? 大将軍:諸葛恪(前威北將軍) 驃騎将軍:朱據 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:呂岱(前鎮南將軍)? 主な事件 十三年夏五月、日至、熒惑が南斗に入る。《三国志呉書呉主権伝》 秋七月、東の空で魁第二星を犯す。《三国志呉書呉主権伝》 八月、丹楊、句容及故鄣、寧國の諸山が崩れる。鴻水が溢れる。詔に原逋責,給貸種食.廢太子和,處故鄣。《三国志呉書呉主権伝》 八月、魯王の孫霸が死を賜う。《三国志呉書呉主権伝》 冬十月、魏の將の文欽が反乱を偽って朱異を誘う。孫權は呂據を遣わして朱異に付けて文欽を迎えさせた。朱異等は慎重に動いたので文欽はあえて進まなかった。《三国志呉書呉主権伝》 十一月、子の孫亮を立てて太子と為す。《三国志呉書呉主権伝》 軍十萬を派遣して作堂邑涂塘以淹北道。《三国志呉書呉主権伝》 十二月、魏の大將軍の王昶が南郡を囲む。荊州刺史の王基が西陵を攻める。將軍の戴烈、陸凱を遣わして抗戦する。皆引還した。《三国志呉書呉主権伝》烽火以炬置孤山頭,皆緣江相望,或百里,或五十﹑三十里,寇至則舉以相告,一夕可行萬里.孫權時合暮舉火於西陵,鼓三竟,達吳郡南沙《三国志呉書呉主権伝に引く庾闡の揚都賦注》 是歲、神人が書を授け、改年、立后を告げた。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 孫霸:魯王 注 ▲PAGE TOP 249年<< >>251年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/20.html
<魏 226年> <蜀漢 226年> <呉 226年> 226年 黄初七年(魏) 皇帝 曹丕→曹叡(魏) 皇后 郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人)→皇太后に。 三公 太傅:→鍾繇 太尉:華歆(前司徒) 司徒:王朗(前司空) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 その他の要職 大司馬:→曹休(前征東大將軍) 大将軍:→曹真(前中軍大將軍) 驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍) 主な事件 七年春正月、許昌に行幸する。許昌の城南門が故無く自ら崩れる。帝は心から之を嫌う。遂に入らず《三国志魏書文帝紀》 正月壬子、洛陽宮に還る《三国志魏書文帝紀》 三月、九華台を築く《三国志魏書文帝紀》 夏五月丙辰、帝の病篤く、中軍大將軍曹真、鎮軍大將軍陳群、征東大將軍曹休、撫軍大將軍司馬宣王を召す。並びに嗣主を輔政するよう遺詔を授け.後宮の淑媛を遣わして昭儀以下実家に帰す《三国志魏書文帝紀》 夏五月、文帝は病篤く、曹叡を皇太子と為す《三国志魏書明帝紀》 五月丁巳、嘉福殿において帝は崩御した。時年四十《三国志魏書文帝紀》五月丁巳、曹叡は皇帝に即位する。大赦。皇太后を太皇太后に、皇后を皇太后と尊ぶ。諸臣に封爵し各々格差有り《三国志魏書明帝紀》 五月癸未、母の甄夫人に追諡して文昭皇后とす《三国志魏書明帝紀》 五月壬辰、皇弟の曹蕤を立てて陽平王と為す《三国志魏書明帝紀》 六月戊寅、首陽陵に葬る。自殯及び葬送は皆終制をもって從事する《三国志魏書文帝紀》明帝は送葬せんとするが、曹真、陳群、王朗等が暑熱のため固く諫めたため止した《三国志魏書文帝紀に引く魏氏春秋》 八月、孫權は江夏郡を攻め、太守の文聘は堅守する。朝議では兵を発して救わんとするが、曹叡は孫権が勝てないことを予見して、先ず治書侍御史の荀禹を遣わして邊方を慰勞させる。禹は到ると、縣兵及步騎千人を山に登らせ狼煙を挙げた。孫権は退走した《三国志魏書明帝紀》 八月辛巳、皇子の曹冏を立てて清河王と為す《三国志魏書明帝紀》 吳將諸葛瑾、張霸等が襄陽を攻撃する。撫軍大將軍の司馬懿は之を討ち破り張霸を斬る。征東大將軍の曹休はまた其別將を尋陽に破る。論功行賞があり各々格差があった《三国志魏書明帝紀》 冬十月、清河王の曹冏が薨ず《三国志魏書明帝紀》 十二月、太尉の鍾繇を太傅、征東大將軍の曹休を大司馬に、中軍大將軍の曹真を大將軍に、司徒の華歆を太尉に、司空の王朗を司徒に、鎮軍大將軍の陳群を司空に、撫軍大將軍の司馬懿を驃騎大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》 この年、後の明悼毛皇后は曹叡が皇帝に立つと貴嬪となった《三国志魏書后妃》 誕生者 死没者 曹丕(字子桓):魏文帝。 ゼイ玄(娘が孫登の妃・リツ陽侯)《呉書潘濬伝》 呉範(病死)《呉書呉範伝》 張霸:司馬懿に破れ斬られる
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/186.html
<魏 248年> <蜀漢 248年> <呉 248年> 248年 赤烏十一年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫和 三公(呉) ? その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 左大司馬:朱然(前車騎將軍) 右大司馬:? 大将軍:諸葛恪(前威北將軍) 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:呂岱(前鎮南將軍)? 主な事件 十一年春正月、朱然が江陵に城を築く。《三国志呉書呉主権伝》 二月、地震。《三国志呉書呉主権伝》孫權の詔に曰わく「朕以寡德,過奉先祀,蒞事不聰,獲譴靈祇,夙夜祗戒,若不終日.僚其各厲精,思朕過失,勿有所諱」《三国志呉書呉主権伝に引く江表傳》 三月、宮が完成する。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月、雨雹。《三国志呉書呉主権伝》 四月、雲陽から黃龍が見られたと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 五月、鄱陽から白虎が現れ、仁だと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》瑞應圖によれば、白虎の仁は、王者が暴虐を行わないとき現れ、仁なる虎として害を与えないという《三国志呉書呉主権伝に引く瑞應圖》 詔して曰わく「古者聖王積行累善,脩身行道,以有天下,故符瑞應之,所以表德也.朕以不明,何以臻茲?書云『雖休勿休』,公卿百司,其勉脩所職,以匡不逮。」《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 247年<< >>249年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/109.html
<魏 237年> <蜀漢 237年> <呉 237年> 237年 青龍五年→景初元年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人)→(死亡) 三公 燕王:公孫淵(自称して自立する。改元して紹漢元年。百官を置く) 太傅:(空位) 太尉:司馬懿(前大将軍) 司徒:(空位)→陳矯(前尚書令)→(死亡) 司空:(空位)→衛臻(前尚書僕射) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍) 大将軍: 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 主な事件 景初元年春正月壬辰、山茌県で黃龍が現れたと伝わる。これを有司が奏上し、魏が地統を得ている為として建丑之月を正月とすべしと述べた《三国志魏書明帝紀》 三月、曆を定め、改年し孟夏四月とした。服色は黃を尊び、犧牲には白を用い、戦の事には黑く首が白い馬に乗り、大きな赤の旗を建て、朝会には大きな白の旗を建てた。改めて太和曆を景初曆と言う。其春夏秋冬、孟仲季の月は正歲(現在の暦)と同じではないといえども、郊祀、迎氣、礿祠、蒸嘗、巡狩、蒐田﹑分至、啓閉、班宣時令、二十四節季の早い晚い、敬授民事、皆現在の暦と同じ順序とした《三国志魏書明帝紀》初め文皇帝が即位し漢から受禪した時、漢の正朔に従って改めず。帝は東宮にあった時論を著し、正朔は改めるべきで、受命之運を明らかにすべきと述べた。即位するに及んで、久しく放置されていたのを史官が改めてはと述べたので、三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石に詔して博く議させたがまとまらなかった。帝は古典に拠って、甲子に詔して「今三統の順を推察すると魏は地統を得ていて建丑之月をもって正月と為すべきだろう。青龍五年三月を改めて景初元年四月と為す」《三国志魏書明帝紀に引く魏書》 五月己巳(5月2日)、洛陽宮に還る《三国志魏書明帝紀》 五月己丑(5月22日)、大赦《三国志魏書明帝紀》 六月戊申(6月12日)、京都に地震《三国志魏書明帝紀》 六月己亥(6月3日)、尚書令の陳矯を司徒と為す。尚書僕射の衛臻を司空と為す《三国志魏書明帝紀》 六月丁未(6月11日)、魏興郡の魏陽、﹑錫郡の安富、上庸を分けて上庸郡と為す。錫郡を省き、錫縣を魏興郡に属させた《三国志魏書明帝紀》 有司が奏上するに、「武皇帝は乱を廃し正に変えしたので魏太祖となり音楽は武始之舞を用い、文皇帝は受命天に応じて魏高祖となり、音楽は咸熙之舞を用い、帝は治を興して魏烈祖となり、音楽は章(武)[斌]之舞を用います。三祖之廟は萬世において壊さず、その他の四廟は親しさに合せて迭毀するようにしましょう」と。《三国志魏書明帝紀》 秋七月丁卯、司徒の陳矯が薨ず。孫權は將の朱然等二萬人を遣わして江夏郡を囲む。荊州刺史胡質等は迎撃し退走させた。初め孫権は使者を遣わして海路より高句驪と通じ遼東郡を襲おうとした。幽州刺史の母*丘儉は諸軍及び鮮卑・烏丸を率いて遼東の南の境に屯す。璽書で公孫淵を徴し淵は兵を発し叛く。儉は軍を進めて討ち、雨が十日も降り続く中対陣し、遼水が氾濫する。詔をもって儉の軍を還えす。右北平の烏丸單于が婁敦を攻略し、遼西の烏丸都督王護留等は遼東に居座る。率いてきた部族の者は儉に従って內附する《三国志魏書明帝紀》 七月己卯(7月14日)、遼東の將吏士民に詔して淵に脅され略され降ることができなかった者を一切赦す《三国志魏書明帝紀》 七月辛卯(7月26日)、太白が昼に見える。淵は儉が帰還すると遂に自立して燕王と成る。百官を置き、紹漢元年と改元する《三国志魏書明帝紀》 青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作るよう詔す《三国志魏書明帝紀》 九月、冀・兗・徐・豫の四州の民が洪水に遭う。侍御史の循行を遣わして溺れ死んだもの及び財產者を失ったものに在所の官倉を開き救う《三国志魏書明帝紀》 九月庚辰(9月16日)、皇后の毛氏が卒す《三国志魏書明帝紀》 冬十月丁未(10月13日)、月が熒惑を犯す《三国志魏書明帝紀》 十月癸丑(10月19日)、毛后を悼み愍陵に葬る《三国志魏書明帝紀》 十月乙卯(10月21日)、洛陽南の委粟山を圜丘と為す《三国志魏書明帝紀》 十二月壬子(12月19日)冬至、祭祀を始める《三国志魏書明帝紀》 十二月丁巳(12月24日)、襄陽郡の臨沮・宜城・旍陽・邔の四縣を分けて襄陽南部都尉を置く《三国志魏書明帝紀》 十二月己未(12月26日)、有司は奏上し、文昭皇后の廟を京都に立てられますように。襄陽郡の鄀葉縣を分けて義陽郡に属させる《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/98.html
<魏 225年> <蜀漢 225年> <呉 225年> 225年 黄初六年(魏) 皇帝 曹丕(魏文帝) 皇后 郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人) 三公(魏) 呉王:孫権 太尉:鍾繇 司徒:華歆(前御史大夫) 司空:王朗(前大理) その他の要職(魏) 太常:邢貞? 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大司馬:(空位) 大将軍:孫権 驃騎将軍:? 車騎将軍:公孫恭(遼東太守) 衛将軍:? 地方官 并州刺史:梁習 主な事件 六年春二月、使者を遣わして許昌以東沛郡までを循行させ、病に苦しんでいる民を探し、貧者に之を貸すようにした《三国志魏書文帝紀》 三月、召陵に行幸し、討虜渠を通る《三国志魏書文帝紀》 三月乙巳、許昌宮に還る。并州刺史の梁習が鮮卑の軻比能を討つ。大いに破る《三国志魏書文帝紀》 三月辛未、帝は船団をもって東征する《三国志魏書文帝紀》 五月戊申,譙に行幸する《三国志魏書文帝紀》 五月壬戌、熒惑が太微に入る《三国志魏書文帝紀》 六月、利成郡の兵、蔡方等が郡をもって叛く。太守の徐質を殺す。屯騎校尉の任福を遣わして步兵校尉の段昭、青州刺史とともに之を討ち平定する。脅迫略取に遭いまた亡命した者は皆其罪を赦す《三国志魏書文帝紀》 秋七月、皇子曹鑒を立てて東武陽王と為す《三国志魏書文帝紀》 八月、帝は遂に水軍船団をもって譙から渦を巡り淮河に入る。陸路を徐州に行幸する《三国志魏書文帝紀》 九月、東巡台を築く《三国志魏書文帝紀》 冬十月、廣陵故城に行幸する。長江に臨んで觀兵する。戎卒十餘萬、旌旗は數百里に及んだ《三国志魏書文帝紀》 十一月、東武陽王曹鑒が薨ず《三国志魏書文帝紀》 十二月、譙から梁を過ぎ行軍する。故漢太尉橋玄の墓に太牢をもって祀らせる 是歲大寒。水路は凍り、舟は長江に入れなかったため引き還えす《三国志魏書文帝紀》 誕生者 死没者 曹鑒:東武陽王